思考錯誤

細々とオタク関連のあれこれを書いてます。

『スタードライバー 輝きのタクト』最終回に寄せて。
思いついたことを纏まりもなく。

ねぇ、タクト君 流石にほんの一瞬だけ驚いちゃったよ・・・でも、タクト君ならこうするのは当たり前だよね
あなたがスガタ君をこのまま放っておけるわけない
あなたは、出会った時からいつも私たちを笑顔にしてくれた・・・それこそが、あなたの第1フェーズなのかもね
でも私最近よく思うんだ
私はやっぱりあなたに出会わなければよかった、あなたが島に来なければよかったのにって
ケイトは心に決めた1人の男性だけを思い続けるのが良いと言ったの
本当にその通りだと思う
私は彼氏の出来たルリが凄く羨ましかった
ねぇ、タクト君
2人の男の子をこんなにも深く同時に好きになっちゃった女の子の苦しみが、あなたには分かる?

・↑こんなことを男性主人公が言ったら、間違いなくヘタレ呼ばわりされて、『悲しみの向こうへ』をBGMに凄惨な最期を迎えるのだろうけれど、ワコが言うと妙に納得してしまう。
この説得力は何だろう、やはりワコの薄さから来ているのだろうか。
それでもなおヒロインとしての存在感を保つ早見沙織の演技は見事の一言。
ヘタレるという状態を、「選択の困難性」として説得力を持たせることに成功していると思うのだが、コレは男女の非対称性から来るものなのか、どうなのかまだ自分の中で消化しきれていない。


・「綺羅星!」や「銀河美少年」、派手な服装など、ネタをベタ・マジに書き変えつつ駆け抜けてきた全25話は、躁鬱入り混じったテンションで何とも言い難い魅力を伴って一定の視聴者を惹きつけたように思う。派手な風貌や仕草と対称的にどこか冷めた印象の綺羅星十字団は、仮面で互いの正体がバレていないという設定が裏付けるように、若者的な上辺っぽさを持った集団だった。
そこにある種の「熱さ」を持ったタクトが登場する事で、ある者にとっては倒すべき敵として、またある者にとっては恋敵として、否応なく変えられていく。


・基本的に、「友人を守る」をベースに「親父VS息子」と「懐古VS未来への希望」が重ね合わさった構造になっていているのだけれど、提示される「未来への希望」をタクトは「俺には見えている」と言うだけで(そこに3人で見た夕日が重なる、青春!)、実体の伴わないあやふやな物に留まっている。
「オッサンは昔に戻りたいってゆーけど、俺ら若いし青春まっ最中だし未来は希望に満ち溢れているっぽいじゃん!」みたいな。輪郭のない希望は「何もなかった」絶望とワンセットだと思う点、そして「青春」をロールモデル的に捉えそれに模倣的に振舞う事が個人的に合わないという点で、あまり評価できないかな、と思った。


・タクトは、一見能動的な人物に見えるけれど、根本的な部分はかなり受動的で、決め台詞が他人の受け売りだったり、ワコの事があって襲ってくるから戦ってるだけで、タクト自身に大きな戦う理由はない。ああ、ヘッドが居たかw
先に述べた「熱さ」や「未来への希望」の話と併せて、現在を楽しむため、戦略的に前向きのベクトルを持ってはいるものの、それが実際「前」なのか、その先に何があるのかをハッキリ提示できない地盤の緩さを感じた。
それは敢えて直視せず、「ヘッドのようにはならない」という指針の下で、最良の選択肢なんて分かんないから取り敢えず青春をエンジョイしとこうか、という態度。


そんな感じの事を思った。綺羅星!
『マクロス7』をちまちま見ているのだけれど(現在18話まで)、主人公・熱気バサラの存在感というか人物像がちょっと異常。
主人公が成長していく様に移入させる訳でも、「男の世界」にあこがれを抱かせる訳でもなく、求道者が偉業を成し遂げる過程を見守るかのような雰囲気を感じる。
だって、戦場に乱入して歌い続けて、それで争いを解決しようとするとかどう考えても頭おかしいじゃないですか。

視聴者が(特に主人公に対して)自己投影するタイプの作品とは、かなり異なっている印象。
歴史物の作品だと、過去の偉人があたかも歴史の歯車(あるべき方向へ導く機械)かのように描かれて、冷酷だったり非常な作戦を指揮したり、天才的な見通しを示したりするけれど、なにかそういうニュアンスに近い。
マクロス世界で、「ミンメイという伝説」以後に登場すべきカリスマとしては、そう描かざるを得ないのかもしれない。
バサラが繰り返しミレーヌに言う「お前には分からねえよ」という言葉は、ミレーヌを通じて「こちら」との隔たりをも示しているように思う。
その意味では、ミレーヌ視点に近いのかな。

マクロスといえば歌と三角関係が伝統だけれど、バサラは浮世離れしていて、ぶっちゃけ恋愛に絡むとは思えない。
どちらかというと、周囲が否応なくバサラに惹かれていくんだろう、と思う。
男二人女一人の関係だけれど、ミレーヌは奪い合われる訳でもなく、ガムリンと競い合う訳でもなく、バサラが選択を迫られる訳でもなく、勝手に周りが騒ぐんだろう。

正直、スパロボで概要だけ知っているので、悩んだりするエピソードがこれからあると思うのだが、悟りをひらく為の修行みたいな位置づけなのだろう。

4クールアニメなので、暇があるときにちょっとずつ崩していこうと思っている。
あるジャンルが成立―あるいは特定の方向性がジャンルとして認識されるようになる―と、次第にその方向性を模倣、反復、新解釈、拡張するような作品が内部に生まれる。
ジャンル的なお約束とは、そうした活動の中で次第に見出される。
こうした新陳代謝の過程で精度が高まる事によって、そのジャンルは成熟する。

ジャンルが成熟すると、そのジャンルに対する批評性を持った作品というのが出てくる。
エヴァを思い出せば分かりやすい。
ロボットに対して「乗りたくない」と叫ぶことには、ロボット物というジャンルの自明性―世界を救うために、選ばれた主人公は当然ロボットに乗ること―へ批評的な色合いを含む。
キャラクターの内面の葛藤を通して、それを試む作品はずいぶん多い。

キャラクターの内面以外でも、例えばエロゲーでは、自明とされているプレイヤーと主人公の関係を、メタ視点の導入などを駆使して解体する試みは幾つもある。

今なら「魔法少女」ジャンルに対する『まどかマギカ』がソレなんだろうな、と。魔法少女は『なのは』しか見た事無いけれど。
キュウべぇの勧誘が視聴者にとって怪しく映るように演出されている事に、魔法少女としての「しなければならない」を告発する意図があるのは、もはや自明だろう。
そうしたフックが多重に仕込まれているので、「語りたがり」がわんさか群がるのは当たり前かもしれない。

そして、「惑う者」を浮き彫りにする枠組みとしては、悲劇がある。
「圧倒的で残酷な現実」だとか「偶発的な事故」によってキャラクターの自意識を揺さぶる事と、視聴者がジャンルへのまなざしを揺らがせる事は、巧みに結びつけられる。
エヴァをはじめ、ここ十数年のなんとなく暗い作品は、そんな感じなんじゃないだろうか(非常に雑)

いよいよ魔法少女残酷物語の気配を強めて来た『まどかマギカ』は、こうした文脈で捉えると、「魔法少女でソレをやった」に過ぎない、とも言える。
そうは言っても、視聴者は相変わらず悲劇が大好きだし、「魔法少女」という未開の地は開拓しがいがあるのだろう。
注目すべきは、ともすれば新しく見える部分ではなく、「あたりまえの悲劇」の精度だと思いながら、視聴している。
虚淵センセはそういうの得意だし。
やや真面目に、無い頭を絞りつつミルキィホームズについて考えようと思う。


アバンタイトル(諏訪部さんの良い声ナレーションのアレ)で示される探偵と怪盗の対立関係が、作中では殆ど機能していない事にすぐ気付くと思う。そればかりか、「探偵」サイドの落ちこぼれたシャロたちを、「怪盗」サイドのボスが温かくサポートしてすらいる。ここに、なにか意味を見いだせないだろうか。


まず、頻繁にテーマにされ、分かりやすい例として「正義と悪」という二項対立について考えよう。ヒーローが世を乱す悪を成敗する。勧善懲悪物である。
ヒーローが次々に悪を倒していくと、やがて「ヒーローを倒す」事を目的とした敵役が登場し、その過程で、言わばヒーローの巻き添え的に被害が生まれる事がある。この状態の中で、ヒーローは絶対善の立場から離れ、むしろ悪という状況を生む要因にすらなるのではないか、という疑問が生まれる。そこにあるのは、「悪が居るからヒーローがおり、ヒーローが居るから悪が居る」という奇妙な共犯関係である。
例えば映画『ダークナイト』では、バットマンがこうした状況に悩むなか、まさに「コインの裏」を象徴する敵役としてジョーカーが登場し、またバットマンが居たからこそ生まれた敵役・トゥーフェイスがいる。まあ、見てない人は見て下さい。
また、ライトノベル『住めば都のコスモス荘』では、こうしたヒーローと悪の関係をコメディ風かつ皮肉めいた取り上げ方をしている。
この中で、ヒーローはパワードスーツの採用テストの被験者であり、悪はそのテストの為に企業が用意した存在である。そして彼らは、互いの正体を知らないままひとつ屋根の下でお隣さん同士として共存関係を築いている。


さて、こうした奇妙な共犯関係は、ミルキィホームズの元ネタとなった探偵推理小説においても存在する。上記の「正義と悪」を「探偵と犯人(怪盗)」にあてはめた場合である。いわゆる後期クイーン問題、という奴だ。「探偵が参加したり存在する事により、犯罪が発生するのでは」みたいなアレである。
アニメ第2話においても、絵画を盗んだあとに怪盗側のキャラクター・ラットは「ミルキィホームズが居ないと仕事が楽勝過ぎて物足りない」と言っているが、彼が感じた「張り合いの無さ」は、こうした問題が存在する事の証左になるだろう。

しかし、始めに述べたように、ミルキィホームズの作中では、探偵と怪盗の対立関係は、探偵側の「トイズの消失」を切っ掛けに機能不全に陥っている。ここで重要なのは、ここまで述べてきた因果から、「自覚的に降りた」訳ではない、と言う事である。『ダークナイト』のラスト、バットマンが「闇の騎士」という立場に乗った事とは対称的である。
葛藤も自覚もなく(少なくとも作中では描写されていない)まだまだ共犯関係を維持するつもりでいた彼ら。
それが不意に断たれた時、新たに生まれたのは、視聴者のみなさんはご存じのとおり、怪盗側のボス・アンリエットによる奇妙な「保護」である。
「怪盗側のボスが探偵側の学校の生徒会長である」という時点からして既に皮肉に映るが、トイズを失くし学園から追放されかけた(設定では、トイズを持っている事が学園に入る条件である)シャロたちを、アンリエットが助け、見守るのである。
探偵が怪盗を必要とするように、怪盗もまた探偵を必要するのだ、と言わんばかりである。
敵と言うよりも保護者、母であるかのようだ。アニメ第8話で熱を出したシャロ達を看病するさまは、まさに母の姿に映る(こうした母性像は形式的でもあるが)。おっぱい大きいし。
かくしてミルキィホームズのコメディは、アンリエットの母性に包まれながら存在している。

探偵パロディ物という基盤を持つこの作品が、後期クイーン問題的なものを全く意識していない、とは考えにくいので、どこまでかはともかく、計算されたものであるように思う。どこか人を食ったような出来になっているこの作品の雰囲気の一因だろう。
「以後」の物語として本作を考えると、また違った深みが出てきて面白いのではないだろうか。

ストレートに「探偵対怪盗」を描いたのがPSP版ゲームであり、それを皮肉まじりでコメディとして取り上げたのがアニメ版とした時、作品のメディアミックス展開における表現の多様性への意識の存在に気付くだろう。
さすが、あの木谷高明氏である。


何が言いたいかって言うと、ミルキィホームズは面白い、ってことです。
新番もおおよそ出揃ったようだけれど、やはりネタアニメ的フックを持った作品に注目が集まる事が多いような気がする。「ネタアニメ的フック」はそれっぽい呼び方をしてみただけなので、ニュアンスで理解してください。

「インターネットの評判」的なモノをチェックする平均的視聴者を対象にした時、こういうとっかかりが「話題」
や「評判」となっていく。
一番使われるのがエロで、それ以外だと「綺羅星」みたいなのだとか、パロディネタだとか、その他諸々である。
「綺羅星」なんかだと、露骨にバイラルマーケティング的な要求が見てとれて、アニプレックスらしさを感じる。
「やられやく」辺りは、そういうフックにド嵌まりする視聴者の欲望に忠実に応えている、という印象。
アニプレのゆま氏の動きとか興味深い。

こうした、ネタ的なフックに飛びつき、それを喜ぶ視聴者達のゆるやかで刹那的な語りが「話題」を形成する、というのを前提として作られる作品というのがたぶん間違いなくあって、その態度は正しいのだけれど。

そればかりでもどうなのかな、と思わなくもないのです。子供が喜ぶメニューだけ食べてても飽きちゃうし。
多面的な作品から一面だけを取り出し、気に食わないとかいちゃもんつける事もまた愚かなので、別のところでどう物語を形作るのかも見て行くべきだし、今まさにそうした能力が問われても居るのだろう。
溜まっていた「ソラヲト」を、現在最新の8話まで見た。
この作品は、OPが象徴的なように、繰り返し死のイメージが表現され(クリムトが云々という知識は無くともどこか不気味さを感じる事は出来るかと思う)、また戦争を思い起こさせるもの(多脚戦車・タケミカヅチ、過去に起こったという戦争、会話の節々に匂わせる情勢の不安定さなど)が多く登場し、カナタを始めとする第1121小隊に何かしらの悲劇が訪れるような展開を視聴者に予想させる。
また、本作のタイトルのみしか示されない次回予告も、「来週こそ何か…」を抱かせるのに一役買っているだろう。

が、未だその「何か」が描かれない。
相変わらず、公式でいう所の「騒がしいほど明るくて、ちょっぴりせつない軍隊生活」が繰り返されているだけだ。
もっとも「戦争」を取り上げた第7話でさえ、フィリシアが小隊を居場所と再確認するための記憶、という用いられ方にとどまっている。
これから最終回まで、まだ何がどうなるかは分からないにしろ(少なくともWebの9話予告を見る限り平穏のままであるようだ)、最後まで「少女たちの日常」しか描かれない、という可能性もある。
もし仮にそうだとしたら、なかなか象徴的な作品になりうるかも知れない。

1話で登場し、いかにも第1121小隊が辿る運命を暗示するかのような「炎の乙女」の伝承、旧人類が戦い敗北したという「あいつら」、その結果の世界の衰退、「隣国と休戦中」という状況、あるいは格納庫の「タケミカヅチ」そのもの…こういった「想像力を掻き立てるもの」全てが、「少女たちの日常」を強化するため「だけ」に用いられる(実際には何も起こらない)、そういう可能性だ。
オタクの考察脳を真っ向からバカにするような作品になるかも知れない。
また、世界の衰退をもたらした存在の不透明さ、「隣国との戦争」という言葉のみで片付けられる情勢、「ヘルベチア国内にも10機と残されていない」強力な旧時代の兵器(タケミカヅチ)が少女5人しか居ない小隊に(故障中とはいえ)配備されている不自然さは、どこかセカイ系を連想させる。

そうした後景、仄めかしを無視して「少女たちの日常」が描かれる様子は、「けいおん!」的な作品の肯定―トレンドの移り変わりを象徴する物になるのではないだろうか。

参考:ソ・ラ・ノ・ヲ・ト(アニメ)まとめWiki
「消失」、レイトショーで見てきました。
ここ数ヶ月、マクロスF・東のエデン・Fate・なのは、消失と、アニメ映画ラッシュだった訳だけど、この中では一番面白かったかと。
是非観に行って欲しいですね。
「笹の葉ラプソディ」を見て予習しておくと、より楽しめるかもしれません。

以下、ネタバレ感想につき隔離
劇場版マクロスFを見てきた。

TV版とは異なる、劇場用に再構成されたストーリー。
最初のシーンから軽い驚きがあったものの、それほど違和感なく受け入れられた。
よりメインの三角関係に話が集約されているかな、という印象。
また、アルトの演劇に対する「逃げ」の心情が、TV版よりも直接的に語られている部分も気になった。

その分、他のキャラの影が薄くなったと思う。
第三勢力・クラン派は、その出番の少なさに涙を飲んだんじゃないだろうか。
ルカのお相手ナナセが居ない事になっていたりもしている。

そんなことよりも、この映画の最大の魅力は、ライブやアクションにおける、映像と楽曲による圧倒的な迫力にあるだろう。
細かい理屈、そしてストーリーまでもが、バルキリーとバジュラのド派手な戦いの前には些細な事と化す。
ただ単に、とてもシンプルに「面白い」。

パンフレットのインタビューにて語られる、河森監督が目指したという「エンターテイメントの臨界点突破」。
その挑戦が実を結ぶかは完結編の完成を待つとしても、「イツワリノウタヒメ」の時点で既に、「映画」というよりも「『マクロスF』という体験」と呼ぶべき物になっているのではないかと思った。

まあ、見に行けってことです。
初日朝一で見て来ました。
文字通りの「破」でした。
ネタバレ気にしないで書くんで、嫌な人は開かないでね。
以下格納。
ハルヒの新作、「笹の葉ラプソディ」が放送された訳ですが、
                           ↓証拠↓
ハルヒ

ことハルヒに関しては、執拗に「サプライズ」を狙った戦略が取られている事に疑いは無いと思う。
1期テレビ版1話の「ミクル」伝説や時系列シャッフルに始まり、「ハルヒちゃん」1話の(恐らく意図的な)配信遅れと「nice boat」。そしてここに来ての(公式には前情報なしの)新作放送。

「ハルヒ」のヒットの経緯(you tubeへの本編アップロードやMADが大きな役割を果たしたと言われている)から、角川がネットユーザー―特に情報感度の高かったりするアクティブな層―に働きかける事を非常に意識している事は容易に想像できる。
「想像させる情報」(すべてが完全な狙いで無いにしても)で揺さぶりをかけ、期待と関心を集めた上で、ひっくり返す。
この情報が氾濫した状態を上手く利用しようとしているように思う。

最も、そうした層は「ノせられている」事に対し非常に敏感で、高二病的に拒否反応を示す人が多いようだ。
すなわち、「角川ちょっとウザくね?」などと。

ここら辺の微妙なズレとサジ加減の難しさは、現在は提供者側がネット上のユーザーに対し未だ十分なアプローチを確立していない過渡期ゆえに目立つ物だと思うのだが、これから先、もっと「われわれ」に対する研究が進んでいった先(みなさんの大嫌いな電通さんは多くのリソースをこれにつぎ込んでいるようですよ)、果たしてどんな「売り出し方」が見られるのだろうか。
今は黒子の姿が何となく透けて見えるが、これから先もそうであるとは限らない。
かつてテレビがわれわれにそうしたように。

ファンとしては単純に新作が拝めてうれしい限りなのであるが、こういう「無駄な読み」をしてみるのも面白い。